私のタイ国の三度の手術体験記~完全女性化手術への道程~その3

タイへ第三回目の渡航:40日間
・植毛 – H.H.H.ヘアーセンターにて
・SRS+豊胸+顔の女性化(フェイスリフト) – ガモン・クリニック

12月、いよいよ最後の訪タイです。空港では横須賀さんとエーオさんが出迎えてくれました。初日は横須賀さんの事務所に泊めてもらい、翌日には蝋人形館へ連れて行ってもらいました。タイ王族や高僧の蝋人形を、私は興味深く見学しました。

先ず自植毛を受けました。クリニックはHHHという有名な植毛専門医で、医師の名はウィロートといいました。前回のFFSの傷口を隠す目的と、額の生え際を丸く女性的にするためでした。手術前、医師との面談で額に線を引いて生え際の位置を決めました。その後後頭部の髪をカットされ、そこに麻酔クリームを塗られました。

いよいよ手術が始まりました。後頭部にバイブレーターを押し当てられ、そこに麻酔を打たれました。そして頭皮が切り出されました。痛みはありませんでした。次に生え際にも麻酔を打たれ、ニードルのような機械で次々と穴を開けられていきました。歯医者さんが歯を削るときのような機械音がしました。その作業と並行して、別室では看護婦が切り取った私の頭皮から毛根を株分けしていました。
穴が開け終わると、看護婦が数人で一本一本植毛をしていきました。手術があまり長時間にわたったので、私は途中トイレにたちました。手術中、日本語をほぼ完璧に話す女性が通訳としてずっと付き添ってくれました。

手術が終わると、手術跡は赤くぶつぶつになっていました。医師から「植えつけた髪はかさぶたとともに3ヶ月ですべて抜け落ちる。3~6ヶ月したら新しい髪が生え始め9ヶ月でほぼ生え揃う」などといわれました。
クリニックからバンダナをもらい、それをかぶって傷口を隠しながら山元さんにコンドータウンまで送ってもらいました。翌日、目と目の間が少し腫れてふくらみました。

SRSの手術前日、タイ人女性スタッフのプイさんがコンドータウンまで迎えに来てくれました。ガモン医師とのカウンセリングの後、すぐ入院して腸内洗浄に入りました。手術はS字結腸法でした。私の場合5年前の睾丸摘出で陰嚢が萎縮しており、反転法では膣の深さが取れないというのがS字にした理由でした。

午後4時に下剤を飲まされ、6時から腸内洗浄が始まりました。ベッドの上で体を横向けにし、肛門から大量の水を腸内に流し込まれました。
最初の数回は真水ではなくコーヒーでした。
急激に下腹部が膨張し、まるで下痢便を瀬戸際まで我慢しているような激しい便意に襲われました。口から逆流するような吐き気も生じました。

一時間おきに水を肛門から大量に注がれ、それをトイレで排出するという作業を繰り返しました。回数が増えるごとに慣れるどころか、むしろ苦しさは増していきました。
手術までに腸内を空っぽにしなければならないということでした。初日は夜11時まで計6回におよび、最後はへとへとでした。

翌朝7時より再び腸内洗浄が始まりました。
午前中までに、無色透明の水しか便器に出ないようにしなければならないということでした。手術は午後3時でした。
なんとか腸内洗浄を終え、病室で手術時間を待っていると、プイさんの携帯に横須賀さんから電話がかかってきました。
私に用事ということで電話を代わると、「急で申し訳ないが、手術をガモンクリニックではなくピヤウェート病院でしたいとガモン先生がいっているのですが」ということでした。

理由を聞くと、私がスポーンクリニックでFFSをした際、呼吸が浅くなったり血圧低下を起こしたりしたことで、もしかして麻酔に弱い体質かも知れないと判断し、万一の時に応急処置がすぐ取れるよう、設備が完備された病院でしたいということでした。「執刀医もスタッフも全員移動するので、別な先生が手術をするわけではありません」という言葉で安心し、それに承諾しました。点滴をつけながら車椅子で移動しました。

ピヤウェート病院で入院の手続きを終えると、横須賀さんが駆けつけてくれました。
待合室には大きなテレビがあり、オカルト番組が放映されていました。
横須賀さんが、「タイ人はお化けが好きで、こんな番組ばっかりですよ」といって緊張をほぐしてくれました。
青いガモンクリニックの入院服からピンクのピヤウェート病院の入院服に着替えさせられ、8階の病室に移動しました。

手術の時間が来ました。手術室に向かう私を横須賀さんとプイさんが見送ってくれました。
途中若い男性医師に「どういう手術をするのですか」と質問されたので、「SRSです」と私が答えると、横須賀さんが「確認ですから」と大きな声でいってくれました。
手術室に入ると、ガモン医師がやってきて笑顔で握手をしてくれました。麻酔を入れる前、若い男性医師が英語でなにやら注意事項を語ってくれました。うなずくと麻酔が体に流され、すぐに意識を失いました。

覚醒するちょっと前、夢を見ました。すぐ忘れましたが、麻酔の最中に夢を見たのは初めてでした。
気が付いて先ず、腸が張るような不快感に襲われました。近くに看護婦がいたので「いつ手術が終わったのですか」とたずねると、彼女は「11時」と答えました。ちょうど8時間でした。
その後「痛い?」と問い返されたので、私は日本語で「腸が張る」と答えましたが、当然ながらそれは彼女には通じませんでした。
その後すぐにまた眠ってしまい、再び目を覚ましたときには腸の不快感は消えていました。しばらくして病室に運ばれました。

ピヤウェート病院のベッドが硬いため、腰が痛くて眠れませんでした。
翌朝、山元さんが来て「午後にガモン医師が検診に来ます。その後ガモンクリニックへ移動になります」と教えてくれました。私は動きたくありませんでしたが、ピヤウェート病院にいてはガモン医師の指示が看護婦に上手く伝わらないからということでした。

午後、ガモン医師が来て包帯を解き、手術跡の血を洗い流す作業をしてくれました。洗浄が終わると再び陰部を包帯でくるまれました。山元さんが、「腫れや出血もたいしたことなく綺麗です」といってくれました。
私が「いったい患部はどうなっているんですか?」と聞いたら、彼は「後のお楽しみです」と答えました。その後ストレッチャーに乗せられ救急車でガモンクリニックへ搬送されました。まるで瀕死の重症患者の気分でした。

ガモンクリニックでの入院が始まりました。プイさんから「もうすぐ歩く練習をします。そうして腸を動かし、おならを出さなければいけません。おならが出たら水が飲めます」といわれました。初めて歩くときプイさんが支えてくれたのですが、立っただけで冷や汗が出て、二三歩歩いてドーナツクッションに座り込んでしまいました。足が紫色になって、極端な貧血症状でした。

抜糸の後、チーフ看護婦のメームさんが来て「これからダイレーションをします。リラックスしてください」といいました。そして私の膣を洗浄し、ろうそくのようなダイレーターを突っ込もうとしました。しかし思うように入らず、私はあまりの痛さにのけぞってうめき声をあげました。
数回試みた末、ようやくダイレーターが膣内に入り、「30分このまま」と彼女にいわれました。私は毎日こんなことをするのかと思うと、生きた心地がしませんでした。

退院する前に、自力で排尿できるか確認するとのことでした。
先ず膀胱に十分な尿が溜まるか調べるために、カテーテルのチューブを閉められ大量の水を飲まされました。しばらくして尿意をもよおしたので、看護婦を呼んでチューブを開いてもらうと、大量に尿がビニール袋に流れ込みました。それを3回繰り返し、ようやくカテーテルを外す許可が出ました。

初めて自分で排尿を試みました。
今までと勝手が違い、なんだか怖いような複雑な気持ちでした。
トイレにしゃがんで力むと、性器全体がまだ腫れているせいか、勢いはありませんでしたが、自力排尿することが出来ました。ようやく退院にこぎつけました。

自分の女性器を恐る恐る見てみると、小陰唇が“たらこくちびる”のように腫れて突き出していました。そこに上下斜めに縫った跡があり、ナプキンにいつも血がこびりつきました。
術後しばらくは腰当パットにも血がにじみましたが、そちらのほうは治まっていました。
しかし尿意の感覚がまだつかめず、排尿はぎこちないものでした。いつも尿が真っ直ぐ出ずに、ちょろちょろ左右に散らばってお尻を汚しました。

毎日ダイレーションが朝夕2回ありました。正直苦痛でした。
ダイレーターは0番から6番まで計7種類あって、0番は直系2センチ弱、最大の6番は直径3.5センチくらいでした。
当初0番で悲鳴をあげていた私は、将来6番を入れなければならないと聞かされ、「こんなものが入るわけがない」と思いました。数日後、0番から1番へサイズアップされましたが、じっとしていられないほど膣が裂けるような痛みが続きました。

体力も僅かずつ回復してきました。しかし性器の痛みは尋常でありませんでした。
ペニスの亀頭部分を万力で絞められているような痛さと、睾丸の袋をカッターナイフで切り刻まれたような痛さが並行しました。
無いはずの男性器が痛いといった感じでした。特に立っているとジンジン痛くなるので、ひどいときはベッドで横になっていました。

退院から8日目、最後の手術である豊胸に臨みました。手術前から「豊胸が一番痛いですよ。手術後のマッサージでみんな泣きますよ」と横須賀さんやプイさんからおどされていました。
横須賀さんが「今、下が痛いでしょうから、そこに上まで痛くなったら精神的負担も大きいでしょう。豊胸は遅らせますか? どうせビザがあるんですから、もう少し経ってからでもいいですよ」と気づかってくれました。
しかしプイさんが「痛いのはいっぺんで終わらせたほうがいいよ。やっちゃいな」と励ましてくれたので、私は予定通りの日程で手術することにしました。手術は豊胸と、顔、首のリフトアップでした。

手術に先立ち、豊胸バッグのサイズをプイさんに選んでもらいました。プイさんはいくつかのバッグを私の胸に当て、「あなたの体格なら300ccがいいと思うよ。250だと小さいと思う」といわれました。私は彼女を信頼し300を入れることにしました。「300だとCカップになると思う」と彼女は言葉を添えました。

手術の日はクリスマスイヴでした。
最後の手術なので、私は無事終わるように死んだ父の名刺をプイさんから足に貼り付けてもらい、お守りにしました。
メームさんがその様子を見て笑っていました。私はメームさんに、「今日はイヴなので、ガモンサンタから胸をプレゼントしてもらう。眠りから覚めたら枕元じゃなくて、胸元にバストがプレゼントされている」と冗談をいいました。

手術は無事終わりました。手術前から豊胸はとても痛いと聞いていたので覚悟していたのですが、覚醒してみると痛くありませんでした。
手も上がり、腕も思いのほか動かせました。ただバッグを入れた両脇と、リフトアップした両耳の後ろにドレーンが突き刺さっていて鈍痛がありました。
山元さんに手を上げる動作を見せると、彼は「それだけ上がれば十分です」と笑顔でいってくれました。彼は私のために、なんども銀行へ両替に行ってくれました。

年末に入り、プイさんが休暇を取って実家へ帰り、山元さんも休暇に入りました。ガモンクリニックでは、医師、看護婦、スタッフ全員が、年末バーベキューパーティーをしていました。私はまだベッドの上で起き上がることが出来ませんでしたので、遠くから笑い声だけを聞いていました。

「年末で誰もいないんです」と、横須賀さんが見舞いに来てくれました。
私が「胸、ぜんぜん痛くないですよ」というと、彼は「とてもラッキーなケースです」といってくれました。
その後、彼はバーベキュー会場からエビを皿に取ってきて、私に箸で食べさせてくれました。今はほとんどスタッフに任せの彼ですが、5年前はすべて一人でお客をアテンドしていました。
私はそのときのことを少し思い出し、ほんのり嬉しくなりました。

ダイレーションと並行してバストのマッサージが始まりました。
バストはマッサージを怠ると硬縮を起こすとのことでした。
毎日2回、両脇から二人の看護婦が体重をかけて圧し掛かり、約30分私のバストをマッサージしました。
ダイレーションは痛いわ、マッサージは痛いわで、大変でした。正月開けにプイさんが戻ってきて、「痛くても我慢しないと、バストの形が良くならないよ」と叱咤してくれました。

プイさんは私をなんども買い物に誘ったり、日本料理店に連れて行ってくれました。
私がダイレーターの6番を見て「こんなの無理」というと、「大丈夫。それどころかきっと7番が欲しくなるよ。でも7番はないけどね」と彼女は励ましてくれました。
それとは逆に横須賀さんは「6番なんて外人とセックスする人が使うんじゃないですか。あんな太い日本人はいませんよ」と、冗談ともつかぬことをいいました。

最後のフォローアップで、私はいくつかの質問をガモン医師にしました。
一番気になっていたのは、小陰唇に壊死したような白い部分があったことでした。
ガモン医師はそれを「大丈夫。治る」といってくれました。
山元さんも当初から、「黒いのはよくないが、白いのは大丈夫」と教えてくれていました。「排尿の際に尿がちらばってお尻を伝うのは治りますか」と聞いたところ、横からプイさんが「女性もそうなるよ」と真面目な顔でいいました。
医師は「OK」と私に診断を下してくれました。

帰国が近づくと、私もだいぶ歩けるようになっていました。
そのころエーオさんがバンコク観光に誘ってくれました。
プラッケーオ、プラッポーを見学し、夜は私のリクエストしたタイ式ボクシングの試合をルンピニースタジアムで見学しました。
プラッケーオでは偶然、タイ王室のシリバー・チュダボーン王女を見ました。
王女は何人もの護衛に囲まれて、笑顔で手を振り私の目の前を通り過ぎて行きました。とてもラッキーでした。
傷口がまだ痛いため、私は先を歩くエーオさんによちよちついていくのがやっとでした。

帰国の日、最後に横須賀さんの事務所で食事をいただきました。
「ピシェート、スポーン、ヨーサガン、ウィロート、ガモン、このタイ医療機関のそうそうたるメンバーからすべて執刀を受けるなんて、あなたは記録保持者です」と、横須賀さんが面白いことをいいました。

空港へは迎えのときと同じく、横須賀さんとエーオさんが送ってくれました。
横須賀さんたちと空港で別れた後、ハプニングがありました。
出国審査でパスポートを見せたら審査官に捕まってしまったのです。そういえばパスポートの写真は、FFSもホルモン治療もしていない6年前のもので、横須賀さんが、「全く分かりません」といったあの写真でした。

怖い形相で「名前をいってみろ」「生年月日をいってみろ」と次々質問され、私は必死にそれに答えました。すると「OK」といってくれたので、やっと許してもらったのかと思いホッとしていると、
今度は女性が来て、「あなたは本当に男か?私について来なさい」と別室に連れて行かれ、そこでも質問を受けました。最後はなんとか難を逃れることが出来たのですが、最悪の場合手術証明書を提示しなければならないと覚悟しました。

今までこのパスポートで何もいわれたことがなかったので、私はタイの審査を甘く考えていたのですが、そのときばかりは本当に肝を冷やしました。

日本でもしばらくは体のケアとダイレーションに明け暮れました。
6ヶ月以内に6番のダイレーターを入れるよういわれていたのですが、なんと3ヶ月で入りました。ダイレーションを始めた当初、0番で悲鳴をあげたのがなんだったのかと思うくらい、その後のサイズアップは順調でした。
その意味で、「大丈夫。7番が欲しくなる」といったプイさんは正しかったです。

痛みは4ヶ月くらいで完全に消え、自転車にも乗れるようになりました。6ヶ月たった今は小陰唇の腫れもすっかり引いて小さくなり、膣口付近の赤みも消えて目立たなくなりました。
ダイレーションはまだ少し痛いですが、それでも6番のダイレーターが6インチ(15センチ)はたっぷり入ります。というより、16~17センチは入ります。

体を100%女にしたのですから、以後の生活も100%女として生きなければ意味がないと思い、男性時代の衣類はすべて処分しました。
わざとボディーラインが強調できる服を買ってきて胸をそらして歩いています。
そうなると現金なもので、もう少し胸は大きくても良かったと思っています。
マンションの管理人や近所の人も最初は目を丸くして驚いていましたが、私が普段どおり挨拶していると、相手も普通に付き合って冗談まで返してくれるようになりました。

仕事を辞め、見知らぬ土地で暮らす私にとって、友達作りは必要不可欠でした。
コミュニティーに参加するため女性として教会に通い始めました。
年配の教会員はおろか、20代、30代の女性教会員でも私を元男と気づきません。
まだ一般の意識として、性転換者などは、芸能界か大都市のネオン街にしか日本ではいないと思っているのでしょう。
おかげさまでずい分友達も出来ました。しかしおしゃべりしたり食事したりするのは皆女性ばかりで、男友達はまだ出来ていません。今後の課題です。

仕事を探そうと思うと、戸籍変更が不可欠に思えました。
女性としてハローワークで登録してもらい、女性名で紹介状を出してもらうのですが、雇用保険等の関係上いざ面接というと必ず現状をカミングアウトしなければなりません。
上手く行かないと恥だけかいてきたようで落ち込みます。

私のことを心配して教会員の方が仕事を紹介してくれるような話もありましたが、心ならずも断りました。
友人からの紹介で、自分の戸籍が知られるのが怖かったからです。戸籍変更さえしてしまえば堂々と友人に紹介依頼できるし、面接の際も過去のことは一切話す必要がなくなります。
しかしようやく3度目の面接で、女性として福祉施設に雇ってもらうことが出来ました。
施設からは「利用者が混乱するため、絶対に“元男”とはいわないように」と釘を刺されましたが、それは私にとっても願ったりかなったりです。

私はその不便さに業を煮やし、戸籍の変更をもくろんでジェンダークリニックを訪ねました。私が手術の証明書を見せると、院長は「え、ピヤウェート病院でやったの。僕もピヤウェート病院で手術したことあるんだよ」といわれました。自身でもSRSの手術を手がけるらしく、「特例法の施行前は、いくら書類を書いても裁判所にはねられたけど、施行されてからすべて僕は通しているからね。任せてください」と応じてくれました。ずい分古くから性同一性障害患者を支援してきた人のようです。

いずれにせよ、私がやってきたようなことは、勇気、執念、お金、健康、この四拍子が揃っていないと出来ないことです。
しかし私にとって最大の勇気は、この手術のために会社を退職したことでした。
築いた立場を投げ捨てるということは、新しい道に踏み出すより勇気のいることでした。
よく結婚より離婚が大変といいますが、その意味が分りました。
会社を辞めるときに要した勇気に比べれば、手術に望む勇気など取るに足らないものだったからです。

思えば、私の人生は奇妙奇天烈です。
この奇天烈人生の片棒を担いだのがジェイ・ウェッブ・クリエーションであり、その社長横須賀さんであったことはいうまでもありません。
彼とその家族、スタッフには心から感謝しています。

激烈な日本のサラリーマン社会を男性として先頭を走っていた私が、今や女性として教会の婦人会に参加して穏やかに生活している。
なんだか自分でも笑ってしまいます。
どこからか、あの、世にも奇妙な物語のサウンドと、タモリのナレーションが聞こえてきそうです。

この記事を書いた人

JWC横須賀
JWC横須賀
バンコク在住、(株)ジェイ・ウェッブ・クリエーション代表。1997年にバンコクへ移住し、現地工場長を経て2004年に会社設立。現在はバンコクで医療系の情報提供と起業支援を中心に活動中。日本国内で年に2回ほど個別相談会も開催しています。1952年生まれで茨城県水戸市出身、在タイ20年超

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